昭和51年05月18日 朝の御理解
御理解 第6節
「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」
天地金乃神様の働きをどこにおっても、どんな場合であっても感じれれる信心を頂かなければ、例えば今日の御理解をなるほどそうだろうと分かっただけでは、常識ができたということだけにすぎぬと言う訳です。そりゃ信心がなくても確かにその天地そのものの働きそのものが神様だ、その働きそのものが神様の働きなんだと、と言う様な事は意味な事は信心がなくても申します。
ですから信心させて頂く者はそういう、いうなら天地の働きをいつもそこに見、そこに聞き出来れる実感、いわゆる神の中を分けて通っておるような実感そのものが有り難いなぁ、もったいないなぁということになるんです。常識的にそれを知っておるだけでは、一つの有り難いというものにはつながりません。そこでそこんところをいよいよ体験を通してです、分からせて頂くということ。
昨日大分支部長、綾部さんを先頭にして、あちらの支部の御信者さん方が七名でしたか、御礼参拝になって、まぁちょうど四時の御祈念を終わりましてでしたから、応接間でお茶どもあげてまぁいうならば大祭の前後の、こぼれ話的な話をいろいろ聞かせて頂いたんですけれども、「もう今度ほど皆さんの真心を感じた事はございませんでした」と言うて、綾部さんが話しておられました。
本当に何からかにまでもうそれこそ、一分一厘間違いないお働きの中におかげを頂いて、何というても長男の一義さん、今の社長ですがこんなに嬉しいことはなかった、こんなに有り難い事はなかったというて、その感激したのが綾部さんとしては一番有り難かったというて話しておりました。その中に毎朝日田から朝参りをしておられます、今日もあそこに参ってきておられますが、伊藤さんという方のお話しで、前の日に皆さんで玉串をつくらせて頂きました。百五十本できました。
それで作り終わってしまってから、やれやれお茶を一服いただこうかと言うて言うたところにジュースがでてきた。だからそのジュースを頂きよったらジュースがこぼれてね、折角つくっとるそのお榊の幣を濡らしてしもうた。もうあの紙縒りもないし別に切った紙もないし仕方がないから、濡れた分だけはあのう取り除いて、後に残りました百二十本がちょうど玉串がきっちりでしたというわけなんです。してみるとそのジュースが運ばれて来たこと、こぼれた事もうここに神様を感じるでしょうね。
もう一分一厘間違いのない働きの中に、いうならジュースのこぼれた琴すらも、実は人間氏子がぼんやりしとるからジュースをこぼして、明日はこれこれぞというて神様がささやきかけておられるものを感じるでしょう。佐田さんの所の御大祭の時に、久留米支部の御大祭の時もやはり、あっちこっちからそのう集まって来たお榊であったそうですが、そのお榊を全部集めて作らせて頂いたものが、ちょうど全部だったと言った様にです、もう合楽の場合にはそういう意味での神様ちゃあのう、間違いなかろうがと。
一分一厘間違いのなか、その一分一厘間違いなかろうがという、働きの中に過ごさせて頂くということが本当の信心生活。だからそこにジュースがこぼれてもです、いうならば有り難いなぁということになるんです。神の中を分けてとおりおるようなもの、そういういうなら体験とか実感というものは、唯常識的にならこの六節を聞かせて頂いて、信心のない人にでも話したらです、そりゃやっぱそうじゃろうと私共も思う。なるほど天地はそのまま神様であり、天地の働きそのものが神様の働きじゃろう。
またその恩恵の中に私共が生かされて生きておるということまでは、誰でも分かるのです。ところが信心をさせて頂いておるものの値打ちというのは、その働きを直に肌で感じれれるおかげを頂かなければ、信心を頂いておる値打ちは私はないと思うんです。やはり伊藤さんが昨日、御参拝の後に朝のお参りの時でした。お届けをしておられましたが、大学卒業、それから次々と勉強されて、ちょうど東京に十年間おれらました。昔からお母さんの信心で、子供の頃から信心を頂いておられますから。
十年間自分の東京である近所の教会に十年間お参りしました。それで本当に金光教の全てと思われるような、いうなら勉強を致しました、またお話しを聞きましたと。ところが分かってしまえばしまうほど、金光教の信心て小さいなぁと、情感も何もあったもんじゃない、もう金光教とはこんな信心ですよと、例えていうならば教典を覚え、金光大神を読破し、金光大神覚を読んでみた。金光教概説ですかなんかもね、金光教のいうならば信心というものはこういう信心なんだ。
こういう教えを教祖はしておられるのだ、教祖はこういう人だったんだ、こういう人がこういう時にこういう教えをしておるんだと。まぁそれを、金光様の先生の詳しい先生はそういうことをすっかり覚えておいて、またはその本を読みながら教えるのですから、教えを習うということはそれだけのことなんです。まぁ今日のご理解からいうとです、神様のその一分一厘間違いのない働きを、そこに実感する教えというものが全然ない。だから私はそれを聞かせて頂きながらです、多くの金光教の信者。
それもなら教会じゃ総代幹部といわれるような、いうならば信心が高尚になってきた人達なんかはです、もう金光教の信心とは、こういう信心だと知ってしまっておる、覚えしまっておるわけなんです。だから例えば合楽あたりの話を聞いても、なんかそれは違った話のように聞こえる。こりゃもう先生方でも信者さんでもです、いうならば私の話はなにか金光教外の話のように思いよる。だからある人は異端視する訳です。
ところが本気で信心を求めて合楽に通うてみると、伊藤さんの言葉を借りるとです、合楽に御神縁を頂いて、こうして毎日お参りをさせてもろうて、ご理解を頂いてです、いよいよ信心の限りない深さ、教祖の信心の偉大さに触れる思いが致しますということはどういうことかというと、有り難いというものの実感がそこに出来て来た事だと思うのです。神の中を分けて通りおるようなものじゃとまではいかんでもです、伊藤さんが今度の大祭の前の日から、ずぅっと一生懸命御用させて頂いて。
その御用をさせて頂きながら神様をそこに感じて、そのジュースのこぼれたあの琴すらも、不注意でこぼれたのじゃない、神様がこぼしなさったんだ、と言った様なものをね感じておられる。確かにそうだな、私は昨日その伊藤さんのお届けを聞かせて頂きながらそう思うたんです。はぁほんな事金光教は、こういう一つの金光教のわくの中から、出るところのおかげを頂かなければ、この方のお広前は世界中であるぞと仰せられるほどしの、大きな信心を小さくしてしまう、とこういうことになります。
この神様ほど大きな神様はない。神の心を心とするということをです、いわゆるこの神様はもう無条件の神様。もう無条件に私共にご恩恵を立てておられる神様だ。だから神の心を心とするということは、私共が無条件の信心生活、無条件の御用奉仕ということに、精進する事は神の心を心として、近付いていく事だと。この神様ほど美しい御心をお持ちの神様はござらんのだ。そこで私共も限りなく美しくなりましょうやという、その限りなく美しくなりましょうという、それを一つの合言葉のように。
まぁ椛目合楽を通して皆さん信心して来たということはです、神の心を心としてきたことなんです。確かに限りなく美しゅうなろうという気になったら、問題はその場で消えてなくなる思いが致します。人間の汚さ我情我欲が必ず問題を作ったり、またその中にはらんだりしてきておる訳なんですから。豊かに大きくなろうと、という言うならばこの神様のお広前は世界中であるぞということは、天地を指しておられるのだと思います。天地そのものが神様のお広前なんだと。
どこへおっても神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだ、それこそ神の中を分けて通るような実感というものが、頂けてくるところに、信心させて頂くものの値打ちがある。それは体験がそれを教えてくれる。昨日は私は大変困ったあのう。まぁいつもはそう言う様な事に類するお届けをさせてもらう時に、一番私は困るわけですけれども。安東さんのお導きだったでしょうか。赤ちゃんの顔半分ほやけになっておられる方が、ここ一年あまりずっと参ってきます。
娘さん達夫婦親子三人と、その方のお婆ちゃんになる方が、まぁ熱心にお参りをされます。一年あまりお参りをさせて頂いてまぁ色々あらゆる角度からおかげを頂いておられますけれども、昨日はその娘婿さん、いわゆるその赤ちゃんのお父さんになる方が、親子四人で参ってきてから、先生今日はちょっとお伺いがありますとこういう。なんでしょうかと、実はここにお参りする前に、二日市にほやけ専門の神様がございます。まぁいろいろと専門の神様なんてあるものですよね。
そりゃそうです、私共も椛目の向こうにゃあのう、イボの地蔵さんというのがありましてね、そこの石を買って来てイボをなでるとイボが取れると言われてもうとて、も九州中から参ってくるです。今はどうか知りません。そこにはこんな小さな石が沢山置いてあります。してそれを借りて来てイボがようなったならば、自分の年の数だけきれいな石を拾うてそこに御供えするという、それだけなんです。イボ地蔵さんというようにです、やっぱだからほやけ専門の、神様がおんなさるということを思います。
同時に私の方の家は、日田の高塚のお地蔵さんに、もう以前からお参りをしよります。それで母がそのあんたが一生懸命、その子供の事をお願いするなら、そげな日本あのほやけの神様てん、高塚さんにてんお参りせんな、合楽一本にせにゃいかんと言いますが、したがよかでしょうか、とこう言う訳なんです。もう私はこういうお伺いをされる時が一番困るんです。本当の事を言うたらですね、不思議に私の心から離れるです。こりゃもう不思議です。体験でよう分かってるです。
いうならば高塚のお地蔵さんとか、その何とか私共は仏様とも神様とも信心とは思っていないんですから実際は。ただ高塚地蔵さん当りの様な一つの何て言うですか、まぁお金がかからないということ。まぁキャッチフレーズが素晴らしいということ。人間の悩み一つだけなら必ずかなえてやろうというのが、キャッチフレーズです。だから人間誰しもです、はぁこればいっちょおかげ頂いたなら、と言った様なものはありますよ。それでまぁ月々お参りでもさせても頂いておりますとです。
一つの惰性になったように、今月も参らなんごたる気持ちで毎月毎月お参りをしておるうちに、何年間続いたということになりかねない。そして何か腑が良かった事があったら、これは地蔵さんのおかげだと言う様な事もまぁある訳なんです。または和賀心に神がござるから、一心を立てればおかげになるのじゃと、仰る様な理もまたある訳です。教義もなからなければ教えもない。ただまぁ拝むというだけの訳なんですから、そういうものは私共は信心とは思わん。
そりゃあもう昨日、二、三日前の御理解を、昨日おとといの御理解ですね、言うなら一心ということ。一心を立つると言う、一心と言う事はこう言う事なんだと言う事を話して、なら合楽一本にしなさいというと不思議に、その私の心から離れるです。こりゃ不思議ですね。タライの水を向こうへ押すとこちらへ帰って来る。こちらへ引こうとすると向こうへ逃げてしまうという、やっぱり理があるんじゃないでしょうか。いうなら我田引水に私が言う様に聞こえるのじゃない、響くのじゃないでしょうか。
まぁどうとも言いようがなかった。まぁ問題はおかげ頂く外ないなと思わせて頂いて、その後に神様にお願いさせて貰いよりましたら、松という字をね、あのう木偏に公という字が書いてありますよね。そしてその公というのは、上がそのハという字です、そしてそのカタカナのハという字を消す所を頂いた。ははぁ成程私共は大きな信心といやぁあの松の字を頂いて、心を公な事に使わせて貰う、大きな信心をせなならんと言よったけれども、そのまぁ一つ向こうには、もう一つ大きな信心があると言う事。
そのハをとると言う事。すると木はムと言う事になります。いうなら心をもうむなしゅうすると言う事です。いわば自ら自身をむなしゅうすると言う事です。信心とは自分をむなしゅうした姿くらい大きなものはないですよね。それはもう神様と一つになるんです。自分というものをむなしゅうしたら。なるほど神の心を心とすると言う事がです、大きな信心大きな心を、神様の大きな心に神習わして頂くと言う事は、もうどうでもよいと言う事なんです。すがりますよ願いますよ、お取り次ぎを頂きますよ。
そしてその後はもうあなたにお任せするという心なんです。これが大きな心なんです。昨日もあるところ、ちょいちょいお参りになられる方ですけれども、女の社長さんです。そこの支配人をしておられた方が、三千万円から私服しておられた事が分かった訳です。まあその事のお願いで、向こうがそのあまり態度が悪いというので裁判された。ところがあちらも弁護士を立てる、こちらも弁護士を立てる、そしてまあ三千万のを一千万、三分の一でまぁあのこらえてやろうと。
そして自分のその気があるんなら、やはり今まで通り仕事もさせてやろうという社長の言い分だそうですけれども、向こうの方では三百万円しか出さんというそうです。三千万横領しとってから10分の1しか出さんというわけです。だからそう言う事ではでけん、せめて三分の一の一千万位はせないかん。向こうもなかなかさるもので、自分の色んな財産なんか、みんな他人名で今しよると言う訳なんです」。それでその事を私神様にお願いさせてもらいよりましたら。
あのう蓮根の節のちっと上のところからポキッと折って、穴のほげたところを頂きました。これはねいかにも信心をしておればです、円満に解決あちらも助かり、またこちらも立ち行くと言う様にです、まぁ三千万のところをなら一千万にまぁまけとこうと、そこを円満な心で、こちらは信心になっておると思うておる訳です。この方はある教会で熱心に信心した方なんです。もう改式までした方なんです。それをまた最近ある問題でこちらに御霊様でも、お願いしておられる方なんですけれども。
だからお互いの信心というものがね、その中途半端ではいけないと言う事です。ならその例えばお願いをしておられる方は、いうならば三千万のつを一千万だけは取らんならん、取れる様にお繰り合わせを願うと言う事ですから、そこがなら向こうが一千万でも出す様にお繰り合わせを願いましょうと言う事は、中途半端です。だからそれをねあのう本当のおかげに、本人が思うておるようなおかげにして行く為には出す、もう例えば裁判をしてからでも取り上げるという、気持ちにならなければいけないと言う事です。
少しばかりのその親切心ですか、三千万を一千万にまけとこうと言った様な事じゃなくてです、もうそれこそ裁判で取れるなら、全部でん取ろうというこちらが、腹を作らなければおかげにゃならんと言う事です。例えば事故なんかにあいます。当然来る金を頂く分にはいいけれども、少しでもよけい取ろうとする。だからそういう願いを私共はさせて頂くわけですけれども、ほんなこと言うたら、それがもし私ならばです、私は一銭も取らんというでしょう。
私は大きな心になるとかねと言う事は、そういう事故にあわなければならない様な事は、向こうのせいじゃない、こちらがです難儀を感じらなんとはこっち、だからそういう難儀を感じなければならないのは、私の原因がある訳なんですから。少しでん余計とろう、少しでん余計とろうという内容の心を、持ってお取り次ぎを願うから、そうお取り次ぎはさせてもらうけれどもです、本当いうたら例えば損害が十万なら十万あったら、十万のお取り払いを頂いて有り難いというそれが信心です。
だからねそういう節々をです、例えば様々な事があります。信心生活をさせて頂きましたら様々な事がありますけれども、そういう節々を大事にすると言う事なんです。それを途中から折って、神様から少し蓮根を食うてもらって、おかげをちょっとでん取らんならんと言った様な程度の時にはです、今日の御理解の神の中を分けて通りおる様な実感は頂けないです。十万の損になったら損をしなければならないのは私だから。十万だけのお取り払いを頂いたと、頂けれるような信心からしかです。
神の中を分けて通る様な、実感は生まれて来ないです。だからこの辺はまぁ難しいといやぁ大変難しいです。我情我欲を一辺はなした姿だから。我情我欲をはなさないとです、我が身は神徳の中にあるとか、生かされてあるという実感が生まれてこないです。我情我欲がある間はおかげをそりゃ頂いた、おかげを頂いた、自分の思いになったおかげと言いよるけれどもです、反対の事になるとおかげと思いきらん。
昨夜から合楽会で、お話しさせて頂いた事でしたけれどね、お互いの信心がね、惰性で例えば日々お参りをさせて頂いておると、言った様な信心じゃつまらんです。それこそ伊藤さんじゃないけれども、金光教の信心は十分分かったように思っておったけれども、合楽にお参りをするようになって、信心の深さ広さに触れていく、その生な実感というものがです、頂けれるのが有り難いから朝参りでもさせて頂いておると言う様な事でないと、信心は一つも進展しないです。
まぁ参らにゃ気色の悪いけん参ると言う事でもなかろうけれどもです、いわゆる惰性をもって信心が続けられたり、特別に取り扱いを受けるから、お参りが続いておると言った様なお参りでは、信心はとどまってしまって、いうなら神の中を分けてとおるような、実感を持って神様を頂く事は出来ません。どうでもやはり、我情我欲のお願いから本当にままよという心というか、あなたにお任せしたというか、痛い思いをするならば、あの人のせいで痛い思いをするではない。
痛い思いをしなければならんのは私なのだから、人じゃない。だから私がその痛いだけのお取り払いを頂いておると、思い込めるような信心から、そういう頂き方になってまいります時に、どういう節へ参りましてもです、その節を乗り切るじゃなくて、その節を乗り越えるたんびに、信心が進んで行く訳です。信心が進んでいくということはどういうことかというとです、本当に神の中を分けて通るようなものだと、神様は聞き通し見通し、そういう中に私共はあるんだという実感。
それこそジュースがこぼれても、あぁおかげ頂いたと言う言えれる実感、後になってみて大祭の玉串を上げ終わってしもうて、あぁ昨日の何十本という玉串が粗末になったと思いよったけれども、あれも神様のお働きであったなと言う事が分かる信心をです、頂いていかなければならない。そう言う事がです、私は神の中を分けて通る様な、理屈でいうたらです信心のないものでも、あぁなったのもそんなもんだろうと分かりますけれども、それを実感として分からせて頂くのが信心なんです。
その実感が次の又おかげを呼ぶ事は勿論です。どう言う事になっておっても神の中を分けて、神様の御守護の中にこれは起きた事なんだからと頂ける時にです、相手にどうこうと言う事ではありません。けれども様々な過程がありますから、昨日のその人心での事件でのお取り次ぎでもです、私はだから一千万と言よりなさるから、一千万戻して貰いなさる様なおかげを願う訳です。だから一千万の向こうは三百万しか払わんと言よるけど。一千万取る事が出来たら。広大なおかげを頂いたというてお礼にみえる事でしょう。
けれどもそれでは本当の事ではない。だからそういうおかげを頂く心の状態としてです、そげななまじっか信心しとるからというて、親切心を使って三千万のを一千万にまけとこうてんなんてん、と言う様なこっじゃいかん、もう始めから全部でもとる、もう裁判になっとるとじゃから、それで勝つ事だけはちゃんとはっきり分かっとるとだから、それこそ全額でも取ろうと言うこちらが腹にならなければ、向こうは一千万出さんと言う事なんです。これはおかげの世界です。けれどもそれが本当のおかげ。
今日の御理解神の中を分けてとおるような実感をもって、信心生活ができるようになるためにはです、それを例えば三千万ひっかかったのは、誰かというとこっちなんだから。もう本当に向こうが幾らでもやろうというなら貰おうけれども、それをなら裁判までして取ろうとは思わんと頂けれるような信心を私は大きな信心だと思うですね。そこには神様と一つになれれる世界があるです。そこには今度はね、また形の違った意味合いにおいての、限りないおかげに繋がって行く事が出来るのです。
どうぞ。